Historia

埋もれていた奇跡の場所

1960年代後半に、清涯荘は別荘として建てられました。当時の先端をゆくモダンなスタイルの建築は、大規模に開発された山の清涯荘は1960年代、当時は誰も足を踏み入れなかった岩山を切り開いて作られた別荘地です。この場所は、空から空撮をして探したといわれています。

岩を砕き、道を切り開き、石を積んで道路が作られ、土がほとんど無い敷地には、近くの山から土を運び、木を植えたそうです。

それから50年以上の月日が流れ木々は育ち高さは20mを超え、この別荘地は山に埋もれ、人々から忘れられて誰も足を踏み入れなくなってしまいました。頂上の大きな岩の上に建てられ、優美な姿を誇りました。しかし、50年という長い時の経過とともに、建物は木々に覆われ、徐々に山の中に埋もれてゆきました‥

 

出会い

2016年3月、山の中に新しい住まいを探していた私たちは偶然、清涯荘を知りました。

当時、門で閉ざされた敷地に足を踏み入れると、鬱蒼と生茂る木々が陰をつくり昼間でも薄暗く、建物の外壁は元の色を失い、最初がどんな姿であったのかも想像がつかないほど古びてしまっていました。

建物の屋上に上がると、周辺の木々は建物よりも高く覆い被さり、林立する木々の隙間から正面の山が少し見える程度の眺めしかありませんでした。

自分達が住むとしても、木々の伐採や、建物の修復はあまりにも規模が大きすぎて、非現実的に思えました。しかし、何故か私たちにはこの土地と建物に希望を感じ、持ち主を探し出して交渉をし、譲っていただくことになりました。

 

地道な交渉

交渉もまとまり、やっとこの土地と建物が使える事になった矢先、伐採や建物の修復の融資を金融機関にお願いしたところ、断られるという事態がおこりました。

土地が公道ではなく私道だからということです。調べると、この土地への侵入道路は開発当時この山一帯を別荘地にした有志19人の共有持分となっていました。

私たちはこの私道の所有者を全て探し出し、1件1件訪ねて道路の寄付のお願いをしました。粘り強く交渉をして、何とか話しをまとめてゆきましたが、持ち主の中には倒産してしまった会社もありました。

私たちは倒産した会社の管財人探し出し、裁判所で権利の移譲を認めてもらい、最終的には全ての土地を1つにまとめて、地元の市へ寄付をし、やっとのことで市の道として認定をしてもらいました。

そして、晴れて銀行からの融資を受ける事になったのです。

 

復旧工事開始

古びていた建物の外壁の塗装や防水工事は地元の業者さんへ直に発注して、自分達で現場監督をおこないました。
建物もどんどん綺麗に、見違えるようになってゆきました。 

土地全体は50年もののヒノキで覆われていたので、それを売ることで伐採の費用ができないかと色々な業者に相談したところ、現実はそんなに甘くなく、ヒノキはほとんどお金にはならず伐採に多額の費用がかかることが分かりました。

途方もない木々を数年かけて自分達で伐採していくしかないと落胆していたところ、ある業者の方が偶然にも若いころに、私たちの祖母がやっていた食堂によく来ていたということが分かり、『あのばあちゃんには世話になったから』ということと、伐採した木はバイオ燃料にするために搬出するということもあり、格安で仕事を引き受けてもらえることになりました。

伐採には大きな重機がどんどん敷地内に運びこまれ、私たちの想像を超える速さで瞬く間に進んでいきました。

自分達で3年かかって切ろうと思っていた木が、3ヶ月であっという間に伐採され、更には山の周辺の木々も伐採し、薄暗かった道路に陽光が射し込み、山全体が明るくなっていきました。

 

見たこともない景色が、、、

建物の周辺の木が伐採されると、屋上からはとんでんもない景色が出現しました。東は長野の中央アルプス、恵那山、南は屏風山、瑞浪の市街地、西の山の向こうには、20km以上先にある名古屋の駅ビルまで、270°の大パノラマの絶景が一望できるようになったのです。

地元に住んでいながらこんな景色は今まで一度も見たことがありませんでした。

建物も綺麗になり、この絶景を幾度となく眺めているうちに、このすばらしい景色を、多くの方に見ていただいたらどうかという思いが家族の中に芽生え始めました。そして、訪れる方々に、この大自然の中で、心と体が解き放たれる時間を過ごしていただけるようなカフェを作ろうということになりました。

 

2017年5月カフェー清涯荘 OPEN

カフェの名前は、元々この別荘に名付けられていた『清涯荘』という名前を活かし、『カフェー清涯荘』と名付けました。

続く…